民間防衛を読み終わった息子、「ちょっと本でも読んでみようかと思うんだ。論説本で面白いのない?」と書架を物色していました。
息子が小さい頃には、書架には息子向けの本がどっさりあり、そのほとんどは私しか読まず、結局廃棄になってしまったのに、もう黄ばんでホコリをかぶった本を物色するとは。
「あれ読め、これ読めと本人が欲しもしていないのに、準備しすぎたな」と後悔の念もわきます。過ぎたるは及ばざるがごとし。
よく、「読み聞かせしてない子は本を読まない」とか「親が本を読まないのに、子が本を読むわけはない。」とか、「本のない家の子が本を読むわけない」などと言われ、子どもが本を読まないという悩みには、親の責任があるような書かれ方をしていますが、違う家庭もあるという証拠のような我が家です。だから、今となってみれば「親が努力しても、どうしようもないこともある!」といのが私の結論です。
さて、黄ばんでホコリをかぶった本のなかでオススメなのは。。。う〜ん。どれも古すぎるよね。とくに論説文となると今よりもずっと情報は古いと思うしね。ざっくり見て「若いころに 成熟できない若者たちを読んで、面白かったような記憶があるけれど、忘れちゃったなあ〜」と返事しました。「んじゃ、これを読んでみるわ」と息子。
息子の読書と私の読書には大きな差があります。 私は濫読タイプ。速くよむのですが、斜め読みです。 息子は読むのが遅い。でも精読しているように感じます。
当分たって、「母さん、あれ、おもしろいわ。古い本だけれど、若者について書かれている部分、耳が痛いところもたくさんあるし。」だということで、何か彼の心に響くものがあったらしいです。 学校で読まされる論説文は興味もないのに読まされることも多く、内容的に今は間違いとされているようなことでも、くどくどと同じことを何度も上から目線で書かれていてどうも好きになれないと言っていた息子ですが、「この間、○○の○○○を読んでたのよ。」(ごめん息子、白状すると話半分で聞いていてそこは右から左に抜けてしまった。)「そこでは、感情は言語によって定義されるようなことが書いてあった。 この本は、感情を言語として表現できないことで色々な問題が起こると書いてある。」だそうで。それを聞いた私は、思いっきり同意!「そうよそう!!」と。
こういう話が親子でできるようになるとは。息子も大きくなったんだなあ。このブログの最初のころから読むとそれはそれで、面白いなあなどと思っておりました。
親が沢山心配して先回りしてきたけど、彼は自分で自分の道を歩き始めたということかもしれません。
相変わらず物語には魅力を感じないのだとか。 そういう子なのでしょう。
彼が読んだ本はもう古本でしか売られてないみたい。改めて買って読むほどの本ではありません。たぶん旬は過ぎているとおもいます。
しかし、小さい頃から子供に本を与えようとしていたこと、親が本を読むこと、家に本があることは、長い目で見ると息子に影響を与えているのかもしれませんね。